【阪急沿線おしらべ係 第82回】
小林一三ってどんな人?<宝塚編> 室内プールから始まった宝塚歌劇、懐かしの宝塚ファミリーランド

【2026年3月配信】
このコーナーでは読者のみなさんからお寄せいただいた、阪急沿線でふと見つけた「気になるもの」や「面白いもの」などを、阪急沿線おしらべ係が調査します。
今回のお便りはこちら。
小林一三について教えてください。
阪急沿線おしらべ係では、以前、阪急電鉄の創業者・小林一三について調査しました。第77回「阪急電鉄の創業者・小林一三ってどんな人?」
今回はこの記事の続編として、小林一三が手がけた事業を「宝塚」に焦点を当てて取材します。取材のために向かったのは、小林一三ゆかりの品々を展示する逸翁美術館(大阪府池田市)。その運営を行う公益財団法人阪急文化財団の学芸課長・正木喜勝(まさきよしかつ)さんにお話を伺いました。

かつては温泉街だった宝塚。なぜ電車を走らせたのか?
文化薫る美しい街並みが魅力の宝塚。1910年に箕面有馬電気軌道(現在の阪急宝塚線・箕面線)が開業しました。当時の宝塚は小さな温泉街として知られていたそうです。

開業時の宝塚駅。写真提供/阪急文化財団
正木さんによると「小林一三は開業時、宝塚を避暑地としても売り出そうとしていたようです。当時の広告に『大阪の夏は暑いが、宝塚や箕面はこんなにも涼しい』とアピールする記述があります。宝塚がどれくらい涼しかったのかは調査しているところですが、今の宝塚のイメージや『温泉』という言葉からすると、意外ですよね」。

開業当初の箕面電車の広告。「あつい大阪!涼しいみのお公園!寶塚温泉!」「如何に大阪があついか 如何に箕面寶塚が涼しいか」と書かれています。
出典/大阪毎日新聞(左から)1910年7月9日号、同年7月25日号 写真提供/正木喜勝
その後、一三は乗客を増やすため宝塚に次々と魅力的な施設を造っていきます。一三の事業を振り返ると共に、宝塚の街の変遷もたどっていきましょう。
宝塚歌劇は国内初の室内プールから始まった!
1911年、一三はさっそく温泉施設と娯楽施設を併設した「宝塚新温泉」を開業。1912年には、別館を増築し「宝塚新温泉パラダイス」をオープンさせました。場所は現在の宝塚大劇場周辺、武庫川沿いのエリアです。

宝塚新温泉周辺の光景。
出典/箕面電車絵はがき(1912年) 写真提供/阪急文化財団
「国内初といわれる室内プールや、武庫川を眺められる納涼台、珍機械室などがありました。珍機械室は、今でいうゲームセンター。のぞき眼鏡(眼鏡をのぞくと絵が立体的に見える機械)、肺活量や腕力を試せる機械など、コインを入れて遊ぶ外国製の機械が並んでいました」と正木さん。
温泉に入った後も、1日中気ままに遊べる場所だったんですね。
実はこの室内プールは、宝塚歌劇のルーツともいえる場所。
「はじめはプールとしてつくられたものの、思いのほか不評だったので劇場に改造したとの説がありますが、さまざまな資料から、実は最初からプール兼劇場としてつくられたことがわかってきました。
夏はプールとして営業し、それ以外の季節は外部から踊り手を呼んで舞踊会をしたり、劇団を招いて演劇を行ったりしたようです。1913年に一三が創設した『宝塚唱歌隊』(のちの宝塚少女歌劇団、現在の宝塚歌劇団)も、1914年に宝塚少女歌劇第一回公演『ドンブラコ』『浮れ達磨』などをこの場所で上演しました」。

宝塚少女歌劇『兎の春』(1915年)。手前にプールサイドの模様が写っています。写真提供/阪急文化財団
「プール兼劇場というスタイルは斬新なアイデアに思えるかもしれませんが、当時ヨーロッパなどにはすでにあり、一三が参考にした可能性はあります。
また、当時から阪神電車、南海電鉄は海の近くを走っていたため海水浴場への誘客をさかんに行っていましたが、阪急電鉄の神戸線はまだ開業しておらず、沿線に海がありませんでした。そうした背景もあって宝塚にプールをつくったのかもしれません」。
一三の手腕により、のどかな温泉街だった宝塚に早くも新しい風が吹き込んだことがわかりますね。宝塚歌劇のルーツが室内プールにあったことも、驚きのエピソードです。
宝塚歌劇誕生に至る、小林一三の先見の明
なぜ一三が宝塚少女歌劇をつくったのか、正木さんによると一三自身が理由を大きく3つ挙げているそうです。
1.三越の少年音楽隊に注目した。
2.一三が帝国劇場でオペラを鑑賞した際、学生が熱心に鑑賞している姿を見て、これからの時代は歌劇のニーズがあると考えた。
3.明治時代以降、小学校で西洋音楽を学ぶようになったが、それを楽しめる場所が少なかったため、西洋音楽を主体とした歌劇をつくるべきと考えた。

宝塚少女歌劇『宝船』(1917年)。写真手前、観客が座っている一段低い場所がプールの水槽です。写真提供/阪急文化財団
「こうして一三は、老若男女が楽しめる娯楽として宝塚少女歌劇を誕生させます。それまでのように劇場に外部の劇団を招いて公演するのではなく、劇団員の養成学校をつくり、自ら公演を企画運営するスタイルへと進化しました」。
1914年に第一回公演を行った宝塚少女歌劇は、すぐに人気となり会場が手狭に。より多く収容できる箕面公会堂を宝塚に移築して「公会堂劇場」とし、そこを拠点に公演を続けました。
さらに人気を集めていましたが、1923年に宝塚新温泉パラダイスや公会堂劇場などが火事で焼失。
そこで急きょ宝塚中劇場を建設して公演を再開し、1924年には4,000人収容を謳う「宝塚大劇場」が誕生しました。

1924年の宝塚大劇場外観。
出典/宝塚大劇場絵はがき(1924年)写真提供/阪急文化財団
ファミリー向け施設が続々誕生
「1920年に神戸線、1921年に西宝線(現在の今津線)が開業したことで、大阪・神戸の双方から宝塚にアクセスしやすくなりました。
ファミリーで楽しめる娯楽施設として、遊園地『宝塚ルナパーク』、動物園、植物園、映画館、50mプールなどが続々とオープン。1932年に、宝塚新温泉内にあった図書室を引き継ぎ、『宝塚文芸図書館』も誕生します(のちに蔵書を移して池田市の『池田文庫』となる)」。

家族温泉や納涼室などの写真。
出典/冊子「TAKARAZUKA」(1935年)写真提供/阪急文化財団

動物園の写真。
出典/冊子「宝塚アルバム」(1930年)写真提供/阪急文化財団

遊具や魚釣り場、映画館、児童用プールなどの写真。
出典/冊子「宝塚アルバム」(1930年)写真提供/阪急文化財団
「1927年には、宝塚少女歌劇団による初の本格レビュー『吾が巴里よ〈モン・パリ〉』が大成功をおさめ、その人気は不動のものとなりました。
宝塚が観光地としてさらなる賑わいをみせた黄金期です」。

宝塚少女歌劇の写真。
出典/冊子「宝塚アルバム」(1930年)写真提供/阪急文化財団
戦争の時代を乗り越え、宝塚ファミリーランド誕生
「戦時中は一部の施設が休業したものの、戦後の1950年代にはウェーブコースターやロープウエーなどの乗りものも増え、1960年に『宝塚ファミリーランド』に改称。
1950~60年代は、阪急電鉄と新聞社がタッグを組み、毎年のように博覧会を開催していました。これは戦前からの特徴です。『こども博』や『日本芸能博』、『太平洋博』などテーマは多彩で、再びファミリーで楽しめる一大テーマパークとして親しまれました」。

「楽しさのすべてがここに!」というキャッチコピーが印象的。
出典/宝塚ファミリーランドポスター(1967年)写真提供/阪急文化財団

阪急電鉄創立50周年を記念した博覧会も開催。
出典/交通文化博ポスター(1957年)写真提供/阪急文化財団
宝塚ファミリーランドの懐かしい思い出を語り合う
2003年まで営業された宝塚ファミリーランド。ここからは阪急文化財団の主任学芸員・宮井肖佳(みやいあやか)さんを交えて、当時の思い出を振り返っていただきました。
宮井さん:1980年代、小学生の頃に町内の子ども会などで訪れました。ホワイトタイガーを見たり、夏に「ゲゲゲの鬼太郎」のお化け屋敷に行ったりしたのを覚えています。高校生になると、冬だけ営業するスケートリンクにも行きました。
私は川西市の出身なので、当時遊園地に行くとしたら、宝塚ファミリーランドが一番行きやすく、よく遊びに行きました。
正木さん:ホワイトタイガーがやってきたのは1985年、阪神タイガースが優勝した年だったんですよね。

ホワイトタイガーのシロタン、シロリン。
出典/宝塚ファミリーランドポスター(1986年)写真提供/阪急文化財団
宮井さん:「世界はひとつ」も印象に残っています。各国の民族衣装を着た人形が並ぶなかを、船のデザインをしたゴンドラに乗って世界一周できるアトラクションです。まだ子どもでしたが、リアルな人形がとても印象に残っています。
正木さん:「世界はひとつ」は人形館ですが、宝塚歌劇団の演出家・内海重典氏がここの演出を担当されたんですよね。

「世界はひとつ」の様子。
出典/宝塚ファミリーランド車内吊広告(1982年) 写真提供/阪急文化財団
世代を超えて愛された宝塚ファミリーランド。実際に訪れたことのない方も、当時の雰囲気を想像していただけましたか?
一三の精神が息づく、宝塚の今を巡る沿線ミニツアー
宝塚大劇場をはじめ、多くの文化施設が今も残る宝塚。一三の精神や歴史の変遷を感じられる場所を訪れて、当時の風情を感じてみてください。
花のみち
阪急宝塚駅から宝塚大劇場に続く散策路。武庫川の旧堤防を整備してつくられた並木道で、桜の名所としても知られます。宝塚大劇場に向かうまでの道のりが、公演への高揚感を演出してくれます。

花のみち

花のみちに立つ小林一三翁の銅像
宝塚新温泉の礎石
宝塚新温泉の正面玄関に使われていた礎石が、宝塚大劇場の敷地内に残されています。かつてこの地に宝塚新温泉があり、時を経て一三の精神が受け継がれてきたことを思うと、不思議と感慨深い気持ちに包まれます。

宝塚新温泉の礎石

礎石に設置されている銘板
宝塚文化創造館
1935年に建てられ、1998年まで宝塚音楽学校本校舎として利用された貴重な建物です。2階の「すみれ♪ミュージアム」では、未来のタカラジェンヌを育てる宝塚音楽学校の授業風景の映像や教材、宝塚歌劇の歴代公演ポスターや作品の衣装などを鑑賞できます。

宝塚文化創造館
まとめ
最後に「一三は、便利な移動手段だけではなく、休日の楽しさや生活の豊かさまで提供していてすごいと思います」と話してくれた正木さん。
みなさんも歴史に思いをはせながら、宝塚での散策を楽しんでくださいね。
最後まで記事をお読みいただきありがとうございます。
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