【阪急沿線おしらべ係 第35回】
能勢電鉄・平野駅近くにある三ツ矢サイダーの塔の正体とは?
【2022年4月配信】
このコーナーでは読者の皆さんからお寄せいただいた、阪急沿線でふと見つけた「気になるもの」や「面白いもの」などを、阪急沿線おしらべ係が調査します。
今回は、こんな質問をいただきました。
「能勢電鉄の平野駅近くにある、三ツ矢サイダーのマークが描かれた塔は一体何なのでしょうか?」
三ツ矢サイダーといえば、今年で発売138年目を迎える言わずと知れたロングセラー商品。そのロゴマークが描かれた塔の正体を調査するため、早速出かけてみました。
塔が立つ場所にはかつてあるものが・・・
能勢電鉄・平野駅から一の鳥居駅間の線路沿いに立つ、三ツ矢サイダーのロゴマークが描かれた塔。
能勢電鉄をよく利用する方なら、車窓から見たことがあるかもしれません。この場所にはかつて、三ツ矢サイダーのルーツとなる、天然の鉱泉を使用した炭酸飲料水「平野水(ひらのすい)」を製造していた工場がありました。つまりここは、“三ツ矢サイダー発祥の地”なのです。
この塔は何?というのが今回の質問ですが、工場があった当時、炭酸ガスを捕集するために使われていた塔を復元したもので、正式名称を「三ツ矢塔」と言います。
三ツ矢サイダーはどうやって生まれた?
ここで三ツ矢サイダーの歴史を紐解いてみましょう。三ツ矢サイダー発祥の地である川西市平野は、平安時代の頃から塩泉が湧き出ており、江戸時代には温泉場として栄えていました。
その頃の様子が描かれた「摂津名所図会(せっつめいしょずえ)」の看板が、能勢電鉄・平野駅から続く歩道橋に掲げられています。
江戸時代、大坂市(現在の大阪市)まで広く知られたという「平野湯」。明治14年には、イギリス人化学者ウィリアム・ガウランドにより、平野鉱泉が飲料用に適しているということが発見されます。
そしてその3年後、日本で初めての飲料水工場が平野に設立され、天然の鉱泉水を瓶詰めした「平野水」が製造されることに。これが、「三ツ矢サイダー」の原点となります。
「三ツ矢」の由来とは?
明治30年には、東宮殿下(大正天皇)の御料品として採用された「三ツ矢印平野水」。その後、砂糖やクエン酸などを加えた「三ツ矢」印の「平野シャンペンサイダー」に続き、「三ツ矢シャンペンサイダー」が発売されます。
画像提供/アサヒ飲料
※『マドリッド協定批准を受けて、「シャンペンサイダー」の名称の使用を中止し、1968年に「三ツ矢サイダー」に名称を変更しました』。
当時の工場内の様子を伝える貴重な写真がこちら。
画像提供/アサヒ飲料
瓶の検査を行っている作業風景も記録されています。
画像提供/アサヒ飲料
そして昭和43年、これまで通称として使用されていた「三ツ矢サイダー」が正式に商品名として使われるようになり、現在に至ります。ところで、「三ツ矢サイダー」といえばおなじみのあのロゴマークですが、なぜ「三ツ矢」が使われることになったのでしょうか?
その由来は、平安時代にまでさかのぼります。武将の源満仲(みなもとのみつなか)が城を築くにあたり、神社に祈念したところ、「矢の落ちた所を居城にせよ」とお告げがありました。それに従い矢を放つと、多田沼に棲みつき住民を苦しめていた“九頭の龍(クズノリュウ)”に命中したそうです。
そこで、満仲はここに城をかまえ、矢を探しあてた男に「三ツ矢」の姓と三本の矢羽根の紋を与えたといわれています。
「三ツ矢」になった理由は諸説ありますが、「満仲の矢」⇒「三つの矢」から「三ツ矢」へと変換されたという説が有力といわれているそうです。こうした背景から、「三ツ矢」を冠するようになったのですね。
発祥の地にあるものとは?
三ツ矢サイダーの歴史をしっかり学んだところで、「三ツ矢塔」がある三ツ矢サイダー発祥の地へ実際に行ってみましょう。能勢電鉄・平野駅の改札を出て真っすぐ進み、
案内板に従って歩いていくと・・・
工場跡地に立つ「三ツ矢塔」の前に到着しました。赤い屋根と三ツ矢の青いロゴマークが目を引く素敵な塔です。
ここから先は、柵が設けられていて中に入ることができません。
今回は特別に、取材ということでアサヒ飲料様の許可を得て中に入らせていただきました。
「三ツ矢塔」の横にある階段を上っていくとその奥には・・・
「御料品製造所」と書かれた建物がありました。建物の前にある看板を読むと、皇室及び宮家へ納入する御料品を製造するため、明治45年に建築されたものであることがわかりました。
重厚な扉に、アーチ型の窓が瀟洒(しょうしゃ)な雰囲気をかもし出しています。
「御料品製造所」の前から続く石畳の先には、「三ツ矢サイダーの碑」と、
厳(おごそ)かな佇(たたず)まいの神社がありました。
看板には、住吉神社と書かれてあります。源満仲によって創建されたと伝わる神社で、この地で平野水や三ツ矢サイダーを生産するようになって以来、現在も守護神として大切に祀っているのだそうです。
神聖な気持ちに浸りつつ神社を後にして、再び「三ツ矢塔」の前へ。ちょうど能勢電鉄が走る姿と一緒に写真を撮ることができました!
ここでふと、工場があったこの場所に、いつから能勢電鉄が走っていたのか?という疑問が湧きました。
当時の工場全景写真を見ると、奥に線路のようなものが見えます。
画像提供/アサヒ飲料
そして工場平面図を見ると・・・
画像提供/アサヒ飲料
能勢電鉄の線路が描かれていますね。さらに工場前に引き込み線のようなものがある様子。これは何か関連がありそう・・・気になるので、能勢電鉄さんに伺ってみました!
取材に応じてくださったのは、能勢電鉄 鉄道事業部 鉄道統括課の松尾良子さんです。
能勢電鉄本社にて
※新型コロナウイルス感染防止対策を行いながら、取材・撮影をしております。
「大正2年に能勢電鉄が能勢口駅(現川西能勢口駅)から一ノ鳥居駅(現一の鳥居駅)間の運転を開始した際、平野の工場前には引き込み線があり、そこで三ツ矢サイダーを積み卸ししていました。能勢口駅まで輸送したあとは、国鉄池田駅(現JR川西池田駅)で積み替えて、全国に出荷されていたようです」。
平面図に描かれていたあの線は、やはり引き込み線だったのですね。どのような車両で三ツ矢サイダーを運んでいたのでしょうか。
「資料が残っているのは大正6年からなのですが、電動貨車2両で輸送していました。最盛期には能勢電鉄の収入の約半分が、三ツ矢サイダーの貨物収入だったという記録があります」。
収入の約半分とはすごいですね!最盛期を支えていた車両の写真があるということで見せていただきました。
こちらが大正6年から三ツ矢サイダーの運搬に使われていた電動貨車103号。全長6m余り、荷重4.6トンの木造車両です。
そしてこちらが大正12年から活躍した電動貨車105号。103号と同じく木造車両で、全長は7.9m、荷重4.1トンです。
「年間の輸送量は25万箱、1箱48本入りと資料にあるので、瓶に換算すると1,200万本にも上りました」
三ツ矢サイダーの需要が高まる中、山間部にある平野では工場が拡張できず、西宮への移設などにより徐々に規模が縮小されます。さらに昭和に入るとトラックが台頭し、次第に能勢電鉄は貨物輸送から旅客輸送へと軸足を切り替えていったそうです。
時代に合わせて変化し続けることで、三ツ矢サイダーも能勢電鉄も長い歴史を築き、今日があるということですね。
三ツ矢サイダーと能勢電鉄の歴史を知る興味深い取材となりました。皆さんも、当時の面影をたどりに、「三ツ矢塔」と能勢電鉄のツーショットが見られる三ツ矢サイダー発祥の地を訪れてみてはいかがでしょうか。
三ツ矢サイダーについてより詳しく知りたい方はこちら
https://www.asahigroup-holdings.com/brand/mitsuya/
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